『バビロン』第11話「開幕」感想です。
前回あらすじ
ドイツの一地区でも自殺法の導入が決定され、ウッド大統領はドイツのヘリゲル首相やイタリアのカンナヴァーロ大統領と会談を行った。正崎とハーディ捜査官は、女児が海に身投げするところを目撃。彼女は曲世に洗脳されたベニチオ市長に教唆するような言葉を投げかけられていた。正崎はウッド大統領に正規のFBI捜査官になるように任命される。正崎の本当の目的は曲世を始末するための銃を手に入れることだった。その後、イギリスでも導入される地区が現れ、齋はそれらの都市の首長が集まる自殺法都市首長会議を提案する。
11話あらすじ
G7が開幕。最大の議題は自殺法の是非についてであった。カナダのダン・キャリー首相は同性愛者に権利を認めることと同じく拘束からの脱却を意味していると肯定的だったが、フランスのルカ大統領は反対の立場を表明した。
一方、イタリアのカンナヴァーロ大統領は自由主義の精神から地域の自由だとし、ドイツのヘリゲル首相は業務上の自殺幇助は罰するという姿勢を軟化させ、自殺の権利を認めると宣言した。
イギリスのロウ首相は頑に反対で、日本国首相の福澤俊夫は全会一致であることを条件に、サミットで出た結論に追従すると語り、自殺法が争いの火種になってはいけないと強調した。
ウッド大統領は自殺法の是非について考える前に、根源的な善悪とはなにかについて考えることが重要だと説き、サミット参加首脳全員がそれに乗った。
様々な意見が交わされ、議論が煮詰まっていった頃、自殺法都市首脳会議に動きがあった。齋は会見で、ある女性が新域庁舎からの飛び降りを企図しているが踏ん切りがつかない。ウッド大統領との会話で、飛び降りるべきか降りないべきかを決定するというものだった。その女性は曲世愛であった。
善悪とはなにか
『バビロン』ではこれまで「正義とはなにか」をテーマにしてきたが、ここで「善悪とはなにか」というさらに根源的な問題へと突入した。正義と善は似て非なる概念で、正義は対立を根幹にした概念であるが、善は対立がなくとも成立する普遍的なものである(参考:Wikipedia)。
作中では、善悪は神に見られているという意識から発現するものか?という問いから発し、人間のみにしか存在しないのか?と疑問を投げかけ、善悪は後から人間がそう名付けただけと結論付けた。
そして各社会において善となり得るものの共通項の形成因子を探し出している。作中では、
・自然継承
・交流と洗練
・人類の普遍的道徳性
の3つが挙げられていた。個人的には最後の遺伝子にインプットされた善悪が存在するという意見が最も納得できて、例えば殺人が悪とみなされるのは種の保存が最も行われやすい形質が残ったと考えられる。だけど公平性などの概念は、社会性を帯びているので遺伝だけでは説明できないものであることも確かだろう。
最終的には「生きるとは何か?」という問いに還元されていた。時代や場所によっては、イスラム国などの自爆テロや日本の特攻隊など、死そのものが善とみなされうるケースもあるように感じられるが、それは善というよりも正義であって、やはり善とは言えない行為なので、「生」が根源的なものであることは納得できる。
トロッコ問題
善悪を考える上で、トロッコ問題が例示された。日本ではマイケル・サンデルが取り上げたことで有名になった。暴走するトロッコを放置すれば5人が轢かれるが、分岐を切り替えれば別の1人の犠牲で済む場合、切り替えるかどうかという問題(問題A)である。太った人を突き落とした場合トロッコが止まるならどうするか(問題B)というものもある。
ただしこれは何が善かという問題ではなく、問題Aと問題Bを比較して、人間はどういうプロセスで道徳を考えるかという思考実験である。問題Aでは分岐を切り替えると答える人が多いのに対して、問題Bでは突き落とさないと答える人が多い。
曲世を突き落とすか?
それでは、曲世愛を屋上から突き落とすべきなのだろうか。そう勧めるならば、これから何人かの人物が救われるかもしれないが、彼女を殺したということになる。しかも、彼女に飛び降りるように勧めたならば自殺法を肯定したことに等しい。思い止まらせたなら、曲世による犯行がさらに続くことになる。
どっちにしろ齋としては利益になるので、彼が負けることはないと思うのだが、ウッド大統領はどのような答えを出すのだろうか。最終話が楽しみだ。
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