『映像研には手を出すな!』7話感想 お風呂シーンは必要か?

3.0

『映像研には手を出すな!』第7話「私は私を救うんだ!」感想です。

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前回あらすじ

ロボットアニメの制作が開始された。さやかは内々に情報技能研究部へと打診し、高性能なパソコンを格安で入手。ソフトウェアも学校のライセンスの使用許可を得て、無料で確保する。さらに、さやかは不法占拠を続けていた音響部部長の百目鬼と、映像研の倉庫を貸す代わりに自由に音源を利用できる契約を交わす。みどりは制作中にロボットの現実味の乏しさに再び不安が募るが、さやかの叱咤でやる気を取り戻すのだった。

7話あらすじ

ツバメは幼少期から、お茶の滴の動きや人物の歩く姿などに関心を持って、スケッチを繰り返していた。彼女の「動き」に対する拘りは、子供の頃から育まれたものだった。

ロボットアニメ制作は着々と進み、音響部の百目鬼も映像研も倉庫に移ってきた。ところが、声優はロボット研究部の部員がやることになっていたものの素人演技で、美術部とは仕事に対する姿勢の違いからのすれ違いで、なかなか捗らない。

ある日、大雨警報が発令され、午後からは学校が休講となった。みどりとツバメはさやかに連れられ、銭湯へと向かった。3人はお湯に浸かり、ザリガニ釣りを楽しみ、お腹を満たす。

後日、ツバメが納得いかない箇所が出てきて、音響を付けて一度鑑賞してみることに。音響の効果は絶大で作画の物足りなさも隠れるほどだったが、それでもツバメは納得できず、彼女の作画に対する熱意をぶちまけるのだった。

ツバメの作画にかける情熱

私はアニメでは作画はよっぽど酷いとき以外はほとんど気にならないし、作画よりもストーリーの方を重視するので、水崎氏のアニメーションにかける情熱は正直なところあまり理解はできない。だけど私のようなタイプの人は言ってしまえば、ドラマや小説などでも満足できるので、特別「アニメ」が好きというわけではないのかもしれない。水崎氏タイプの「アニメーション」が好きな人こそ本当にアニメが好きな人なのだろう。

作中でアニメとアニメーションは使い分けられていて、アニメーションの語源はアニマから来ているとされてWikipediaでは「生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する」となっている。実写とは違い、全てが意識的な動作として描かれているという台詞があったが、だからこそリアルよりももっともらしいような演出があったり、逆にリアルとはかけ離れていても外連味というのが出たりするのだろう。アニメを観るときに、一個一個の作画にまで集中することはあまりなかったから、アニメの良さを再発見させてもらったような気がした。

ただ今回(および前回も)に限っていえば、このアニメにそういう拘りはあまり感じられないと思った。妄想シーンなどは綺麗だが、日常パートでは平均的な仕上がりに留まっているように思う。中国情勢の問題もあるのかもしれないが、作画について熱く語るアニメで作画が壊れては話にならないので、踏みとどまって欲しい。

お風呂シーンは必要か?

アバンの水崎氏の生い立ちシーンは良かったし、彼女が心優しいおばあちゃん子ってこともよく伝わってきた。よっこいしょういちもきっとおばあちゃんの口癖だったんだろうなあと思う。

一方で今回のお風呂シーンは必要だったのかと思う。特別、物語に関係ないシーンだったし、水の動きを描写するためというわけでもなさそうだった。美少女アニメにはよくあるサービス回だが、『映像研』には必要ないのではないか。私はてっきりそういう美少女アニメとは一線を画すためのキャラデザだと思っていたのだけど。

Twitterを見ると、全然性的ではなかったという感想がほとんどだったが、本当に性的ではなかったか?と思う。まあそもそもを言えば、水崎氏という美少女設定のキャラが存在するのもちょっと気に食わなくて、作者は次のように語っているからそもそも水崎氏という美少女キャラはそぐわないのではないかと思っている。

「女子」という記号が「かわいい」とセットになっているマンガアニメ文化の分脈に、ビジュアル的に「可愛くない女子三人組」という記号を僕が投下したから「ん?なんだ?どう読み取ればいいんだ?」と混乱する視聴者・読者がいただけです。ビジュアルから可愛さを排してドタバタする人格は、アニメマンガ文化では男子の担当だった為です。そう評論しています僕は。だから「支配」とか「女はこうあるべきという男の考え」とかではなく、性別が記号化して根付いてる表現文化がワシの漫画、あるいはワシの世代によって変わっていっているだけだと思いますよ。

もし本当にこういう姿勢で作品を作ったのなら、3人ともブサイク設定であるべきだったと思う。水崎氏の存在は妥協のように見えてしまうんだよなあ。

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